火を熾す

冷えきった暖炉に、小さな火をまた灯せるように。風を送って、また大きな火を熾せるように。

後ろは任せた。ゆくゆくは1°から179°、181°から359°まで任せたい。でも真正面は譲らない。

 

誰だってみんなみんな、成し遂げたいことのひとつやふたつはあるものだ。

それに出会った時衝撃を受け、これをしたい。と強く願う想いや熱情が。

今はまだない人も、規模や程度が違うだけで、なにかしらあったりするものだ。

 

 

しかし、残酷なことに

能力には越えられない壁があり

分野には向き不向きがあり、

時間には限りがある。

 

そして優先順位と心に占める割合その他を吟味して

人は取捨選択をする。

 

もちろん、全部やってやろう!という気概を持つものもいる。

でも、みんながみんな、そんなに簡単に強くなれるわけではない。

中途半端に全部手を出して、専門性のないまま淘汰されてしまうものもいる。

 

 

これを気合と努力が足りないと叱咤するのか。

はたまた、選択と集中ができていないと諭すのか。

又はその両方か。

 

常に理想を描き、現実を見ろと諭される皮肉な矛盾をおれたちは生きている。

 

 

そしてその問いに解はない。

 

 

だから、少年漫画とかに燃えるんだ笑

 

 

 

本題に入る。

 

 

おれは動物愛護に強い想いを持つ人間だ。

そして同時に国際協力への想いも強く持っている。

最近は社会貢献系をなしにして芸術関連のことにも熱意がある。

 

タイムラインで「人間死ね」って投稿を繰り返したり、20万払ってカンボジアに行ったり、十数年間落書きを続け、白紙があれば勝手に手が動いてなにかしら描いていたりするくらいだから間違いない。笑

 

 

 

そしてそれぞれにやりたい!と思った瞬間が必ずある。

 

 

轢き殺された猫の亡骸を泣きながら埋めた時。

家畜の非人道的扱いを見て、心がえぐられたように感じた時。

スラムの子どもたちに日本語教育を通してお前はクズじゃないと、お前だって夢を持てると、やればできるんだと自信を与え続けている日本人の存在を知った時。

病んだ時、ひたすら絵を描いたり、音楽を聴いたり、漫画の世界に逃避して、心救われた時。

 

 

 

ほんとは全部やりたいよ。欲張りだからね。

 

 

 

 

でもそんな効率のいい人間でもないから、おれも選ばなくてはならない。

 

 

 

 

選択と集中という言葉がある。

 

 

 

 

今日、中東の社会空間という授業があった。

外務省の仕事で、レバノンに飛んだ話を教授は語り始めた。

教授がとある難民の家庭を訪問した時のことだ

子どもが二人、うつむいて必死に何かをしていた。

そこにあったものは何か。

小さい紙いっぱいに書きなぐられた足し算、である。

所狭しと書き込まれた足し算に感銘を受けた教授は

「将来が楽しみですね」と子どもらの母親に笑いかけた。

途端、母親は泣き崩れた。

おろおろとする教授に彼女は声を詰まらせながら

「どんなに想いや夢があっても、この子たちに未来はないのよ。」

と言葉をこぼした。

 

「今ここで勉強できていることがいかに幸せなのか。」

 

教授はそう話を進める。

 

「彼らとイコールになるような気持ちで、君たちも日々を生きなければいけない。それこそが、何よりの国際協力なのだから。」

 

とても心を動かされた。授業後には泣きながら「私は難民を救いたいのだ」と教授に語りかける女子生徒の姿もあった。

 

 

 

ここで自分の中で面白いことが起こった。

もし、これが一年前であったら。

たぶん自分もその女子生徒と一緒に話を聞き、

“国際協力はおれのやり遂げなきゃいけないことなのかも。”

と思ったかもしれない。

 

でもそう思わなかったのだ。

そしてそれは、今だから、そう思わなかったのかもしれない。

 

その理由はおそらくこの2つだ。

 

  1. それは見たい世界なのか。成し遂げたいことなのか。
  2. 自分がいなくても安心して任せられる人たちがいるのか。

 

である。

 

ひとつめ。見たいのか成したいのか。

 

結論から言えば、国際協力は見たい。

動物愛護と芸術は成したい、やりたいである。

 

芸術は言わずもがな。絵を描くのも文章書くのも感動するのも大好きだ。これは自分でやりたい。というか自分でやらねば楽しくない。

 

そしてよく考えた上で、国際協力は“成し遂げたい”のではなく、その優しい世界になっていくのを“見たい”。

 

その世界の実現を見たい、願う、のであって、決して自分がプレーヤーでなくてもいい、ということである。

自分の手で救えなくても、誰かの手で救われるのならそれでいい。結果が大切だ、ということだ。

 

そしてふたつめ。安心して任せられる人がいるかいないか。

 

昨年、カンボジア国際協力ツアーなるものに参加し、その後も主催団体に加入、みんなと寝食を共にし、想いを語り明かす日々を送った。

 

そこではみんなの熱を感じた。過去を聞いた。未来を語った。

一緒に笑った。一緒に失敗した。そして一緒に起き上がった。

世界で一番好きな人たちがそこにいた。

 

そして思った。

「ここには、世界平和を成し遂げたい素晴らしい人たちがいて、それは心から信頼できる大好きな人たちなんだ。」

 

もちろん、彼らと一緒に平和の前線に立つ未来も憧れる。

でも、おれの成したいことは別にあって、たとえ将来、平和の前線におれはいなくとも、必ずこの人たちがいる。そう信じられる。

 

だから、世界平和は彼らに任せることにした。

自分にとって死角になる背後を任せるかのごとく。

 

この二つの理由故に、おれはその教授の話を聞いても揺れる事はなかったのである。

 

後ろは任せた。

こう思えるようになったのが何より面白い。

でもまだ死角はいっぱいある。

正直、真正面である角度0°を見つめるので精一杯だ。

じゃあ、0°の先にはなにがあるのか。それは自分の手で感動を呼ぶこと、そして

 

動物愛護、である。

 

なにがなんでも自分でやりたい。

 

昨日同じ想いを持つ友達と一緒に、とある方とお話しする機会があり、三人で動物と人間の共存する社会を作りたいね、と語り合った。

そして気づいたら日が暮れてた。

語り合ったビジョンを成し遂げた自分を想像してた。

救った動物たちに顔を舐められ、笑い転げている未来を妄想してた。

そしていつも動物愛護関連ニュースを見たときの気持ちを思い出した。

 

 

 

こいつらを切り捨てておれはおれを保つことはできないんだ。

 

 

 

 

動物と人間の共存社会の実現は見たい世界であると同時に、そこに自分が関わっていないと許せないものだった。でないと、押し潰されてしまう。

 

 

ああ、ここはおれの持ち場なんだ。

 

 

 

 

 

だからここは任せてほしい。

 

でも、背後を除いた残り358°分、まだ残ってる。

 

だから、そこも任せられる人たちに出会いたいなって思う。

 

でも、こっちは、任せてくれて大丈夫。

 

きっとやり遂げる。